この御堂は
本願寺日高別院のことを指しています。
本願寺日高別院はとても重要なお寺です。なぜなら、御坊の地名のもとになったお寺だからです。
門の近くに掲げられている案内板です
日高別院の由来
享禄元年(一五二八年)摂津国江口で三好長慶に敗れた亀山城主湯川直光公は、山科本願寺の第十代宗主証如上人の助力を得て、小松原館に帰還できた。この報恩謝徳のため、天文年間 美浜町吉原に一宇を建立し、次男の湯川信春を出家させた、法名は後に証如上人より、佑存と授けられ、また、一私坊より変じ「吉原坊舎」の号が許された。これが日高別院の開基となった。
天正十三年(一五八五年)豊臣秀吉の進攻によって亀山城、吉原坊舎は焼かれ、湯川一族はご本尊を守って熊野へのがれた。翌十四年戦火もおさまり、佑存は日高に帰り、郡中僧俗と力をあわせて薗浦の椿原に仮堂「薗坊舎」を建てた。
文禄四年(一五九五年)、直光公以来六十余年、国主浅野家重臣、佐竹伊賀守の尽力によって、薗浦と島村の荒地を開いて「薗坊舎」をここに移し、「日高坊舎」の建立を見た。これが現在の「日高別院」である。この地に高く聳える寺院を、近住民は御坊様と尊崇したことから、その地名も御坊と呼ばれるようになった。今の「御坊市」の起源である。
現在の別院の本堂は文政八年(一八二五年)三月十五日に建立したものである。第十世賢了の時、当時の篤信家の喜多忠右衛門と津本所左衛門が協力して千両彩票をあがない、もし当たればこれを本堂の再建費に寄進しようと計画した。それがはまらずも宿願がかない早速実行することとなった。二人は発起人となって各地を勧進募財し、また信者小竹佐兵衛の特別な寄進もあって、ついに坊舎の大再建は完成したのであった。様式は本山にならって総けやき造り、鐘楼と太鼓楼を左右にそなえ、本堂、書院、庫裡、経蔵、茶所、火番居所など七堂伽藍を配している。
明治十年九月、本山より別院の称号をうけ「本願寺日高別院」として現在におよ
んでいる。
下川(したがわ)に囲まれた、日高別院を中心に町並みを形成し、西町・中町・東町に分かれ、特に東町は現在でも土蔵屋敷が多く残り、近世の町並みを顕著に残している。
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